乳がんを患い、先月22日、34歳で亡くなったフリーアナウンサーの小林麻央さん。最期の言葉は「愛している」だったそうですね。
その翌日の23日、20年前に脳の大手術を受け、手術は成功したもののその後、老化が急激に進み、10年ほど前から施設に入所していた私の母は、76歳で天へと旅立ちました。
22日の夜から「呼吸が荒くなっている」と施設から連絡を受けた父は、母の部屋で一晩を過ごしていました。
翌朝には「血圧が70台に下がっている」と電話が来たので、私と弟(私と同じS市内に住んでいます)は急いで母のいるO市に車で向かいました。到着したのは午後2時半ごろ。それから2時間ほど経った午後4時40分過ぎに母は亡くなりました。
母が旅立つほんの少し前、それまで動きのなかった体がビクッと動き、息の様子が変わりました。冷たく、色もうす紫色になっている母の足をさすっていた私は、慌てて母の枕元へ移動しました。
母は必死に口を動かし、何かを言おうとしていましたが、その場にいた私たち家族は、母の言葉を聞き取ることができませんでした。
その数分後、母は息を静かに吸い込んだ後に、息を吐き出すことなく、静かに、自然に、旅立って行きました。
初めて人が旅立つ瞬間に立ち会った私は、その自然のあり様に、「生と死は繋がっているんだなあ」と悲しみの中にありながら、ぼんやりとした感銘を覚えていました。
「母は何を言いたかったんだろう?」
お通夜や告別式の間、何度かその問いが頭の中でこだましました。
その疑問を解いてくれたのは、施主である弟の挨拶でした。
弟は法要後、「母の最期の言葉は聞き取れませんでしたが、今は、『自分のことを思い、思い浮かんだ言葉であれば何でもいいよ』と母は言ってくれていると思います」と挨拶したのです。
私は弟のその言葉を聞き、安心感で脱力しました。「そっかー、お母さんのことを思いながら、それぞれが解釈していいんだー」と。
『きょうこ、見送ってくれてありがとう。来てくれて嬉しかったよ。S市から大変だったでしょう?お母さんは、先に行くから、一人暮らしているお父さんをよろしくね。それから、あなたは、Hさん(私の夫)と協力して、しっかり3人の子どもたちを育ててね。お母さんはいつでも見守っているから、安心して子育てしなさい』
母は、思いやりのあるそんなメッセージを、私に伝えたかったのではないかと思います。
私からは、棺に封をするお別れの帯に
「お母さん、私を産んでくれてありがとう。愛情いっぱいに育ててくれてありがとう。私はお母さんの娘で幸せです」
と感謝の言葉を書き伝えました。
「人間、最期の散り際も本当に大事だな。」と、悲しみでいっぱいの私を支えてくれている夫がつぶやきました。
本当にその通りだと私も思いました。
最期の最後まで、感謝の心を忘れず、皆に愛されて逝った母の人生は素晴らしかったと、心から拍手を送りたいと思います。
私の実家の近くにあるグリーンパーク。O市は緑がいっぱい、素敵な街です。