30年以上前のこと、「人間はしゃべるために生まれて来たのよね」と当時中学生の私に話しかけてきた母は、おしゃべり好きで明るい人でした。その母は、10年以上前に脳動脈瘤で大手術をし、手術は成功したものの、術後の老化が加速度的に進み、今は特別養護老人ホームで介護を受けながら暮らしています。脳の老化も進み、認知症の進行と共に、会話はめっきり少なくなってきているこの頃です。
今年の夏の暑さで、食欲が落ち、すっかりやせ細ってしまった母。3月の末に叔母(母の姉)の突然の訃報に悲しんだ私は、人の命のはかなさを実感したので、できるだけ母との時間を作りたいと、9月の連休を利用して、帰省してきました。
ベットで休む母を見舞った時に、すぐに私だとは気がついてくれましたが、「何が何だか分からなくなってきた」と、とても不安そうな様子。見当識障がい(自分が置かれている場所や時間を理解する能力が障がいされた状態のこと)が進んできたなあと,母の不安げな顔をみて、私は胸が苦しくなりました。
そんな自分の悲しさを心の隅におき、母の好きだった音楽をかけ、それを口ずさみながら、やせ細った手足をマッサージしました。そうするうちに、母の表情は徐々に和ぎ、私の問いかけにも、ぼそりぼそりと答えてくれるようになりました。
振り返ってみると、元気だった頃の母は、本当に働き者でした。本屋でパートをしながら、炊事、洗濯、掃除などの家事をこなしていましたが、それが「大変だとか、疲れた」とかいう愚痴を聞いた記憶がありません。
今、要介護状態の母は、立つことも、食べることも、排泄することなどすべてに介助が必要です。
そんな母の姿を見ていると、健康で働けること、家族のために色々な家事をこなせることが、幸せなことだと気づかされます。
毎日、自分の好きな時間に、ゆっくりお風呂に入れることも、何と贅沢なことでしょう!(施設に入っている母は、週2回です)
仕事と3人の子育て、そして炊事、洗濯、掃除等々、疲れてくるとどうしても、「なんで自分ばかりがこんな忙しいの!」と不満に思い、イライラしてしまう未熟な私。そんな私に、母は「健康に働けることは、とっても幸せなんだよ」と言葉ではなく、自分の生き様を通して、教えてくれている気がします。
寿命を全うするまでは、その命を懸命に生きること、それを身を持って示してくれている母に、これからも教えてもらうことがありそうです。そんな母との時間を過ごすために、今月も母に会いに行きたいなあ